鎌倉時代、二度に渡る国難が訪れます。1274年文永の役、1281年弘安の役は、蒙古襲来として知られております。北条時宗は、時の鎌倉幕府の執権として、御家人を九州沿岸の防備を命じます。
その当時、蒙古の襲来に備える形で、太刀や短刀などを数多くつくらせたとも言われております。蒙古襲来は、「元寇」などとも呼ばれ歴史上、日本が崩壊していたかもしれない二度にわたる大ピンチであったなどととして知られておりますが、日本側の勝因は「神風」などと呼ばれる「台風」などの自然災害に助けられたとされておりますが、その詳細は未だに解明されていないところもあるようです。
鎌倉時代の太刀や短刀は、当時、全盛期を迎える武家文化を支える存在でもあったようです。現代において刀剣を扱う世界では、鎌倉時代につくられた作品の数々を最高級のものとして考える人々が多いようです。
鎌倉時代から南北朝時代につくられた日本刀の特徴を端的に一言であらわすと「勇壮」などの言葉などが使われることが多いようです。