刀工の中でも、三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)は有名です。平安時代の中ごろ、三条(京)に住んでいたことから呼ばれていました。当時、清少納言が枕草子を書いていた時代なため、平安時代の中でも平和な時代だったことが分かります。宗近の太刀姿が優美であるのは、この時代の空気を反映しているためとも言われています。三条小鍛冶宗近は、勅命によって国家鎮護の太刀を鍛えることになりました。しかし、神の御加護がなければできるものではないと考え、伏見稲荷大明神に祈誓をしました。すると不思議な童子が目の前に現れて、古名刀の話をして力づけてくれました。励まされた宗近が神々に祈誓をしながら仕事に取り掛かると、どこからか狐が現れて手助けをしてくれました。この話は、謡曲の「小鍛冶」に謡われています。他にも小鍛冶宗近は狐に縁があると言われており、さまざまな不思議なエピソードを残しています。小笠原若狭守という武将が、三条小鍛冶宗近の鍛えた名刀「狐丸」を帯びて出陣し、勝ち誇る上杉製の真っ只中に突入したのです。この瞬間から、戦地は凄惨な状態となりました。小笠原は狐丸をふるって激戦していましたが、顔を一颯されたことで血まみれになりました。兜は落ち、味方も次々に倒れたものの、小笠原は何とか落ち延びることができました。しかし乱戦中であったために、名刀の狐丸は叩き落され、そのまま所在が不明になってしまいました。戦後に死骸や物具が埋められて、さまざまな場所に塚が作られましたが、そのうちの一つに夜毎、狐が多く集まるようになりました。不思議に思って塚を掘り返すと、人骨に混じってあらわれたものが、この名刀の狐丸だったと言われています。
投稿者: admin
「 鑢(すずり)」の模様
日本刀の「茎」のパーツの部分は、通常は柄に隠れているので錆びついているのが一般的であるようです。黒錆といえる鉄の腐食が落ち着くのは300年ほどのの年月が必要であるなどとも言われているようです。実際にかなりの年数を迎えた日本刀の「茎」の風情は刀剣コレクターの浣腸ポイントのひとつであるとも言えそうです。「茎」には、「 鑢(すずり)」が刻まれているのですが、「 鑢」の果たす役目としては、 刀身が柄から脱落してしまうのを予防したと言われています。いつの時代からか、「 鑢」は、本来の役目とはまた別の意味での装飾的な形で施されることがメインとなり、その模様によって分類や区別が行われるようにもなったようです。「鷹ノ羽」「切」「勝手下がり」「せんすき」「化粧」など、様々な模様がありますが、流派、刀工などの特徴を表す一つの間別のでがっかりどうしても用いられているようです。日本刀の楽しみ方として、普段は一般的には目にすることのできない部分の細工や技法を堪能する楽しみも多くみつけられるはずです。
刀剣の「帽子」
刀剣の「帽子」とは、一体どんな部分を表しているかご存知てらっしゃいますか。刀の「切先」「鋒」の全体を「帽子」として表すこともあるようですが、一般的には「鋒」に 現れる刃文の模様を表しているようです。「帽子」には、刀工や流派の特徴が現れるとも呼ばれていますが、場合によっては日本刀の「顔」になるとも表現する人々もいるようです。この帽子の部分にあたる「鋒」は、日本刀の刀身のパーツの中では、もっとも殺傷力が高い箇所であるとも考えられているようです。刀の先端部分の処理によってできる刃文は、コレクター達の鑑賞ポイントとして大変重要なパーツであります。「帽子」には、「弛み(たるみ)」「大丸」「小丸」「二重」「地蔵」「一枚」など、 様々な特徴からその呼び名があるようです。 名の知られた刀工や、流派においては、その名前自体が、帽子の名としてつけられているようなものもあるようです。それほど大きな特徴や特色が現れる部分であるのかもしれません。
延壽
延壽というのは、鎌倉時代末期から南北朝時代の肥後国のことだそうです。来國行の孫といわれる國村が肥後国菊池に移住して隆盛したそうです。國資、國時、國泰がいるそうです。来派の出来でありながら、柾がかかる肌だそうです。地鉄に白気映りが立っているそうです。刃文は匂口が沈んだ直刃だそうです。古宇多というのは、鎌倉時代から南北朝時代の越中国のもので、大和国宇陀から移住した國光を祖としているそうです。
南北朝時代には國房、國宗、國次などがいるそうです。板目や杢目が際立っている地鉄に、湯走りや地景が盛んに入っているそうです。刃文は相州伝の湾れ刃や直刃調だそうで、匂口が潤んでいるそうです。長谷部というのは、南北朝時代で山城国のものだそうです。國重と國信がこの時代の特徴を顕著に示しているそうです。幅広くて重ね薄いもので、先反りの付いた姿格好だそうです。平造脇指は茎が極端に短い造り込みだそうです。相州伝板目鍛えの地鉄に皆焼刃の激しい焼刃が特徴だそうです。
達磨というのは、南北朝時代の山城国のことだそうです。重光を初祖としているそうです。正光などがいるそうです。三代正光が美濃国蜂屋に移住したということで、後代は蜂屋達磨と呼ばれているそうです。南北朝初期の特徴といわれる幅広い造り込みに激しい乱れ刃というものだそうです。後代には直刃に小互の目を節状に配した作があるそうです。大宮というのは、南北朝時代、備前国のものだそうです。鎌倉時代の初祖・國盛が山城国猪熊通大宮から備前国に移住したことからの呼称だそうです。備前大宮の説が有力だそうです。盛景などがいるそうです。地斑が入り映りの立つ板目鍛えの地鉄だそうです。
正宗
正宗というのは鎌倉時代後期の相模国だそうです。新藤五国光の門人で、相州伝を創始した工と伝えられているそうです。正宗という銘がある太刀や刀は存在しないそうです。短刀数振りに銘があるものが存在しているそうです。板目鍛えの地鉄は地沸が厚くついていて、肌目に沿って地景が顕著に現れているそうです。沸出来の焼刃は、湾れ刃に不定形に乱れた互の目が深く焼き込まれているそうです。
貞宗というのは、鎌倉時代から南北朝時代の相模国だそうです。正宗の門人と伝えられているそうです。貞宗の銘があるものは認められていないそうです。作品の多くは平造りの小脇指しだそうです。板目鍛えの地鉄が正宗に比べて詰んでいるそうで、地沸が付いた自然な地景で躍動感があって、沸出来の刃文は湾れ刃の所々に互の目が交じっているそうです。刃縁に奉書紙を裂いたほつれが働いているそうです。左は「さ」「さもんじ」と読むそうです。南北朝時代初期から中期で、筑前国だそうです。正宗の弟子といわれる刀工のひとりだそうです。
元来は寸法が長く身幅が広い大太刀だそうで、多くが磨上げられて無銘となったそうです。在銘の太刀というのは一振りしか認められていないそうです。ただし、短刀には銘があるものが多いそうです。よく詰んだ板目鍛えの地鉄に湾れ刃を基調とした沸出来の互の目乱れだそうです。鋒部分の焼刃が湾れて先突き上げて尖って返っているそうで「左の捌き頭」と呼ばれている帽子が見どころだそうです。御服郷というのは、鎌倉時代の後期で越中国、則重のことだそうです。越中国御服荘に居住して、郷義広の門人と伝えられているということで、この呼名になっているそうです。柾目交じりの板目肌が顕著な地景だそうです。